岩崎弥太郎について

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幕末の時代、土佐に生まれた一人のわんぱく坊主が、海を見ながら広い世界に思いをはせていた幼少時代。

そんなわんぱく坊主の岩崎弥太郎が35歳になった時、つくも商会を大阪に経営を任される形で創設させ、たった5年と言う短い年月で「東洋の海運王」と呼ばれるまでになりました。

その後、50歳までの10年間まっすぐに前を見続けた生涯を送ったのが岩崎弥太郎です。

岩崎弥太郎は、本当に立ち止まると言う事を知らなかった人物です。

業績をあげ、色んな人からの妨害も受けながらも一歩も譲る事無く、自分の信念を貫き通した生涯であったと言えます。

東京の自宅にて病に倒れ、死を目の当たりにした弥太郎は、今までに出会ってきた多くの人達の事をきっと思い出していたのではないかと思います。

師と仰いだ吉田東洋を始め、後藤象二郎、坂本龍馬、福沢諭吉、渋沢栄一、ジョン万次郎、等そうそうたる面々です。

本当に自分の意思を貫き、波乱万丈に生き、そしてとても中身の濃い人生だったのではないでしょうか。

明治18年に50歳と言う若さで亡くなりましたが、その直前まで岩崎弥太郎の意識ははっきりしていたと言います。

病気の為に激痛で苦しみながら三菱グループの為、後継者の事の遺言を残したそうです。

岩崎家の母

岩崎弥太郎の妻になった喜勢は、結婚当初に送っていた極貧・どん底の生活を、裕福になっても決して忘れる事は無かったといいます。

その為、どんな時でも姑である美和を立て、一歩下がる様な形で弥太郎を支え続けたと言います。

岩崎弥太郎の死後、弟である岩崎彌之助が弥太郎の遺言どおり三菱の社長となるのですが、その岩崎彌之助にとっても母美和は特別な存在であったといいます。

その教えもあって、弥太郎の長男である久弥を三菱の総帥に上げる様に指導し、育成し、その一方で三菱一門をまとめ上げていたと言います。

そして弥太郎の息子久弥が28歳になったとき、三菱商会の社長を譲ったそうです。

岩崎家の家系は凄い物にその後なっていった様で、先ず弥太郎の長女である春路が嫁いだのは加藤高明と言う男で、この男は三菱の社員だったと言います。

その加藤高明は三菱グループから官界に行き、首相にまでなりました。

また弥太郎の四女である雅子が嫁いだのは外交官であった幣原喜重郎と言う男で、この男もまた首相になったと言います。

岩崎家の家系から首相が2人も出ると言うのも、かなり凄い話ではないかと思います。

しかしその時には母美和は既に亡くなっていたそうです。

岩崎弥太郎
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